2014年



ーー−9/2−ーー 宛名書きが苦手 


 郵便物に宛名を書くのが苦手である。葉書にせよ封筒にせよ、書き終わってみると、ひどくバランスが悪い。上に寄ったり、端に寄ったり、スペースが詰まって字がだんだん小さくなってしまったり。十分に注意をして書いたつもりでも、やはり何かおかしい。

 仕事柄、空間判断力とか、形態識別能力とかは、人並み以上ではないかと思う。手先も一応器用な方だと思う。にもかかわらず、宛名書きはひどい。この件に関しては、脳の回路に欠陥があるのではないかと思われるくらいである。

 こんな宛名書きの書類を受け取ったら、怪しく見られてしまい、仕事上不利に働くのではないかと、不安を感じるくらいである。しかし、そんな私に対してある人は言った「そういう一寸おかしな感覚があるから、普通の人では真似できないような物が作れるのだと思いますよ」。

 そのように言われると、一寸慰められたような気がする。でも実際には、そのように好意的に感じてくれる人は、圧倒的に少ないだろう。




ーーー9/9−−− グループ展の成果


 二年に一度開催される「木の匠たち」展。県内の木工家が集まって行うグループ展である。今年は開催年に当たり、15名の作家が参加して、9月の5〜8日に行われた。

 この展覧会、今回が5回目であるが、私は第2回からの参加なので、4回目となる。私はオリジナルメンバーではない、いわば外様なので、最初の内は居心地の悪さを感じたものだった。しかし回を重ねるうちに、だんだん慣れてきた。今では何らわだかまりが無い。

 今回初めて、本館一階和室という、最も客の入りが良いスペースを使わせて貰った。以前は、和室に洋家具は似合わないということで、ちょいと奥まった所にある洋間を割り当てられた。しかし、部屋によって客の数に差があるので、機会を均等にしようということになった。畳に凹みが付かないよう、マットなどを敷いて、テーブルや椅子を配置した。

 あいにく初日は雨模様の天気で、客足が鈍かったが、二日目以降は予報に反して良い天気となり、多くの来場者を迎えて盛況だった。案内状は県内の限られた方にしかお送りしなかったが、それを見て来て下さった方も何名かおられて、嬉しかった。

 この2年間に製作した物のうち、商品見本などとして保管してあったものを展示した。この間ちょっと景気が悪く、新作を作る時間に恵まれていた。それで、ほとんどの展示品が前回と入れ替わったが、これはなかなか無い事である。新作というだけでなく、かなり力の入った作品が揃った。そういう作品群は、やはり見る人に訴えかけるものがあったようだ。

 ところで、襖を外した隣の和室では、北原昭一さんという作家が展示をされた。今回初参加で、しかも年配の方なので、事前はちょっと気が重かった。しかし、この方との出会いが、今回の展示会で最も大きな成果となった。伝統工芸展に何度も入選している工芸作家である。作品は非常に完成度が高く、圧倒的な迫力だった。そんなハイレベルの作家だが、気難しいところは全く無く、質問すれば何でも教えてくれた。わざわざ工房から道具を持って来て、見せてくれもした。物を作り出すことが本当に楽しいという感じの方だった。

 ジャンルは違うけれど、北原さんの作品があまりにも凄いので、私は正直なところ、自分を小さく感じてしまった。真似をしても出来ない事であり、また真似をするつもりもないが、なんとなく引け目を感じたのである。そんな私の心境を察したからでもないだろうが、氏は最終日になって、ぽつりとこんな事を言われた「大竹さんの椅子はずいぶん難しそうだが、どうやって作ったのかなぁ。僕は椅子を作ったことが無いから、皆目見当が付かないよ」




ーーー9/16−−− 記念の品


 前回取り上げた「木の匠たち展」。私は参加した初回から、同じ部屋で展示をした作家の品物を買い求めてきた。もちろん、高額な物は無理である。懐が許す範囲内でということだ。何故そのように心掛けているかと言うと、同じ部屋で数日を過ごせば、交流が生まれる。その交流の思い出を、作品を手に入れる事で、心に固定したいという気持ちである。

 今回は、まず大場氏の漆の器を購入した。

 酒杯は欅材で、底に金箔が埋め込んである。自宅に帰って早速酒を注いでみた。黒ずんだ漆の底に金色の模様が浮かび出て、引き込まれるような幽玄な世界を現した。

 小皿の方は梅材。梅と聞いただけで、心が躍る。漆の器は使っていくうちに艶が増し、また透けてきて木地が見えてくる。この先どのように変わっていくか、楽しみだ。特に使い道を考えずに購入したので、いつの間にか食器棚の奥に埋没してしまう恐れを感じた。漆器は日常的に使わなければ味が出ない。そこで、「マイ小皿」として使う事にした。醤油を注いだり、漬物をよそったり、つまみを載せたり、料理を取り分けたり。そして使い終わったら、これだけは自分で洗って、決めた場所にしまう。この使い方は、なかなか楽しい。




 次に北原氏の作品、ぐい呑みを買い求めた。他の作品は高額で、手が出なかった。このぐい呑みだけは五千円だったので買うことができた。

 この器には、ちょっとしたストーリーがある。材は柿。その柿の樹を、わざわざ水分を吸い上げている梅雨の時期に伐り、即座にロクロ加工をして、仕上げてしまう。それを強制的に乾燥させると、水分が抜ける過程で材が歪む。それが面白いのだと言う。たしかにこのぐい呑みは、はっきりと分かるくらいに形が歪んでいる。柿は特に歪みが出やすいそうだ。乾燥には電子レンジを使うのが良いと氏は言われた。材が割れずに、中まで完全に乾くと。いくつか並んでいた中から、「これが一番歪んでいて、面白い」と選んでくれたのがこの一品である。

 ぐい呑みというものは、形が歪んでいる方が味があり、手に馴染むところで持って酒を飲むのがその楽しみ方なのだそうである。その場に居合わせた人から、そのような話を聞いた。

 木の歪みの性質を利用した作品。たしかに面白くはあるが、他の人が作っていたなら、大して興味も湧かなかったと思う。ところが、氏の他の作品、計算しつくされたようなフォルムと、膨大な手間を惜しまずに、緻密な加工を施した作品の数々を目にした後では、この歪みのぐい呑みはとてもユニークに見えた。同じ作家が作ったとは思えない感じすらした。それを私が口にすると、同席した他の作家が「人間の巾が大きいんですね」と言った。

 ちなみにこのぐい呑み、内側は拭き漆、外側は和紙を張り付けて、黒漆で仕上げてある。木の歪みを利用したなどというと、粗野な印象の作品を思い浮かべがちだが、この品物のたたずまいは、端正である。

 ところで、「この作品を頂きます」と伝えたら、氏は「了解しました」と言って正札に印しを付けた。おや、引き渡しは最終日ということかな、と思ったが、まあそれでも問題は無い。ところがしばし後に、同じ場所に小さな桐箱が置かれていた。私と目が合うと、氏は「これですが、中を確認して下さい」と言った。桐箱の蓋を開けると、布袋があり、その中にぐい呑みが入っていた。正直言って、驚いた。五千円の品物に、ここまで手をかけるとは。袋には河童の絵が描かれている。「呑兵衛は、この袋にぐい呑みを入れて、腰にぶら下げて飲み屋へ行くんですよ」と言われた。

 自宅へ持ち帰り、家内に見せた。そして、普段使いのものだから、桐箱までは要らないと思うと述べたら、家内は「そういう無粋な事を言うものではありません。どんなに小さな品物でも、ご自身の作品として大切に思う気持ちが表れていて、とても感銘を受けました」と言った。





ーーー9/23−−− 雨飾山登山


 先週の木曜日の午後、家内が急に「雨飾山へ行きたい」と言い出した。私が朝から「明日はようやく良い天気になりそうだ」などと言っていたのが影響したようだ。家内は、山頂から日本海を見たいと言った。家内と共に登った過去二回は、いずれも雲に閉ざされて眺望が利かなかったからである。

 まずは、早朝発を計画した。早い時間帯に登れば、より良い眺望を得られるはずだ。そのうちに、前夜発ち、登山口で車中泊をすることに変更した。昨秋に購入した軽のワンボックスカーは、車内で体を伸ばして寝られる事が、選択の条件の一つだった。それを初めて試すことになった。自宅で夕食を取ってからでは遅くなるので、道の駅で食事をすることにした。夜道を走るうちに、登山口まで登ることに不安を感じてきた。そこで、道の駅の駐車場で泊まることにした。

 車中泊は、予想以上に快適だった。テントと比べれば、広くて、暖かで、静かである。もし雨でも降れば、その違いはさらに際立つに違いない。便利過ぎて気が抜けるぐらいだったが、我々の年齢なら、それも良いだろう。細かい点では、改善の余地もあった。座席を倒しても、完全にフラットにはならず、段差ができる。それでも眠れない事は無いが、何らかの方法でかさ上げすれば、さらに快適な寝床になるだろう。

 翌朝4時に起床。寝袋をたたみ、着替え、座席を運転モードに直して出発。この間10分程度。この時間の短かさも、有り難い。登山口に着いて、朝食にした。ガスコンロで湯を沸かして、インスタント食品を調理する。他にもいろいろな食材が出てきた。制約無く物資を持ってこられ、しかも取り出したり仕舞ったりが手軽にできるところも、車利用のメリットである。

 山は予想通り天気が良く、山頂付近まで登ると日本海が見えた。しかし、沖の方には雲が連なっていて、深田百名山に書いてある「能登半島の長い腕」は見えなかった。北アルプスは、目の前の白馬、雪倉、朝日から、鹿島槍、そして槍穂高まで、ずらっと見えた。南アルプスの甲斐駒、北岳、仙丈も望まれた。素晴らしい景観だった。山頂には数名の登山者がいた。言葉を交わした初老の男性は、千葉県から来たと言った。既にリタイアして、時間が自由になるのだろう。一般道を車で来て、十二時間かかったとのこと。我々が地元だと言うと、近くて羨ましいと返した。

 来た道を下り、登山口に戻り着いたのは正午過ぎだった。帰路、寄り道をして鎌池を眺め、小谷温泉の露天風呂で汗を流した後、自宅へ向かった。車中泊の山行は、ちょっと新鮮なものだった。それに加えて、私にはもう一つ新たな展開があった。実はその日の夜に、市民運動会の代表者会議が予定されていた。いつもなら自宅に戻ってすぐにビールを飲み、さらに酒へと進んで山行の余韻に浸るところである。しかしこの日は後の予定が有ったので、帰宅してもアルコールは控えた。引き続き工房で仕事をし、夜は会議に出かけた。いつもと全く違うパターンの、盛り沢山な一日となったが、こういうのもまた新鮮だった。
 






ーーー9/30−−− マツタケ採り


 この春から、町内の有志が近所の山へ出掛け、マツタケを採るための整備をしてきた。山の持ち主から許可を得ての、言わば正当な山仕事である。マツタケは、自然の林の中にも出るが、それはかなり条件に恵まれなければ難しい。それに対して、これはという場所を整備すれば、採取できる確率は上がる。整備とは、山の中、主にアカマツ林の地面を熊手などで掻いて、落ち葉を取り除き、地面を露出させる作業である。南向きの水はけが良い斜面で、サラサラとした小石が混じっているような土質のところが狙い目だとのこと。

 夏までに3回ほどその作業を行い、いよいよ秋のシーズンを迎えた。仲間内のルールとして、各自都合が良い時に山に入り、マツタケが採れたら保存して、月例の飲み会に供出する。雑キノコは、各自で処分して良いという事にした。9月中旬のある日、仲間と二人で山に入った。

 整備をした地面を、あちこち見て回ったが、マツタケの気配すら無かった。もっともこれまで地面から生えているマツタケを見た事は無いから、気配などと言うのもおこがましいが。その代わり、雑キノコはビクに一杯採れた。地元のキノコに詳しい人に見てもらい、食べられるキノコを仕分けた。ほとんどがアミタケで、中に少々ハツタケが混じっていた。そのまま茹でて水で冷やせばゴミを取り除き易いという、調理のアドバイスも頂いた。

 その数日後、トレーニングのためにいつもの裏山に登った。ひょっとしたらと思い、ビクを腰に吊るして行った。そうしたら、そこらじゅうにアミタケが生えていた。たちまちビクは一杯になり、入りきらない分はタオルに包んで山を下りた。こんなに簡単に、大量のキノコが採れるものかと、驚いたくらいである。今年はキノコが豊作の年かと思った。

 ところがである。一週間後に同じ場所へ出掛けたら、一本のキノコも見当たらなかった。欲をかいてビクの他にビニール袋まで持参した自分がみじめであった。もうキノコのシーズンは終わってしまったのかと思った。

 二日後、たまたまキノコ名人と会ったので、その話をしたら、キノコは11月まで採れると言う。今回不調だったのは、ここしばらく晴天続きで、地面が乾燥しているためだと言われた。これはよくある現象で、その道の人は「キノコが止まる」と言うらしい。いったん止まっても、雨が降れば回復する。しかし、雨が降っても時期が遅れ、気温が下がれば、もう出ない。止まったまま終わってしまう事もあるそうだ。

 そんな話をするうちに、突然マツタケを採りに行こうか、と言われた。名人は東山(松本平の東に連なる山々を、この地ではまとめて東山と呼ぶ)にいくつかのシロ(マツタケの生息地)を知っているらしい。「もうじき昼だけれど、昼飯を済ませてから行きますか?」と私が言うと、名人は「山へ行くのに昼飯を食ってからなんて呑気な事を言っちゃいかん。リュックにパンでも入れていけばいいんだ。今すぐ出かけよう」と。

 名人の車に便乗して、小一時間。最後は荒廃した林道を、ユサユサと横に振れながら進んだ。林道が崩れ落ちている手前で下車。身支度を整えて、山に入った。それから3時間半ほど山中を歩き回ったのだが、これがなかなかハードなものだった。

 私は若いころから登山を趣味としてきたので、多少は山歩きに自信がある。しかし、登山ルートとして整えられたものと、自然のままの山の斜面では、勝手が違う。離れて見ればありふれた、穏やかそうな里山でも、中に入ればかなり急な勾配がある。そんな所は、立ったままスタスタとは歩けない。足場は傾斜して崩れやすく不安定だ。かと言って、手掛かりとなる木の枝や根は、手が届く範囲に有るとは限らない。特に恐怖を感じたのは、今回のマツタケ取りの目当てである崩壊地への下り。名人はどんどん進んで行くが、こちらは四苦八苦。「大竹さん、ここで滑ったら止まらないよ。下まで落ちて死んでしまうから、気を付けてね」などと声が掛かるが、それが一層恐怖を誘う。マツタケ採りは、命がけなのである。

 そんな思いをしながら歩き回ったが、結局採れたマツタケは2本だけ。もちろん見つけたのは名人だが、たった2本とはいえ、よく見つけたものだと感心した。まさに、偶然に近い確率である。雑キノコくらいは採れると思っていたが、それも全然見当たらなかった。やはり乾燥続きの天候が災いしているようだ。ようするに止まってしまったのである。

 車に戻り付いたのは5時前。谷間は薄暗くなりかけていた。例の崩壊地から、もう少し足を延ばせば、別のシロに行けたのだが、往復2時間はかかるので今日は諦めたとのこと。名人曰く、「やっぱり山は朝から入らなくちゃダメだ」。

 小さく見えても、山は大きい。大きな山でも、マツタケのシロはごく限られた場所にしかない。危険を冒してそこへ達しても、気候などの条件が満たされなければ、マツタケは生えていない。マツタケ採りとは、そういう世界なのである。







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